新宿雑記

学生の頃私は、千葉県の市川市から、世田谷区まで通っていた。それゆえ、通学途中である新宿には何度も途中下車している。といっても繁華街にはほとんど行ったことがなくって、ゴールデン街がいつもその目的地であった。当時、大学の教授にゴールデン街でボランティアをしていた人がいて、その活動に研究室の仲間とくっついていったのが始まりである。ボランティア活動については書くのを控えるが、この活動が終わると路地で一息つくのである。大抵、我々貧乏学生は缶コーヒーで、貧乏教授は缶ビールを飲んでいて、無駄に語っては時間を忘れたものである。教授は缶ビール1本でほろ酔いになってしまい、「諸君!希望するな、常に絶望を抱け!」という一言で締めくくっていた。

新宿ゴールデン街たまにバイトの給料などでお金が入ると、我々貧乏学生は下高井戸の日大通りや学食ではなく、このゴールデン街の店を探検した。しかし、この街、店の出入りが異常に激しいのである。建物は全く変らないのだが、入ってみると前とは違う店になっているなんてこともたまにある。恐らく今現在ある店も、その過半数がここ5年以内に開店したものであろうと思う。では老舗はないかというと、きちんと存在するのである。しかしだ、老舗はマニアックな店が多いため、入っても狭い店内に居場所がないってことも有り得る。中には演劇関係者のみ来店可能という店もあるし、プロの囲碁棋士や囲碁ファンしか集まらない店もある。競馬でしか盛り上がることの出来ない店というのも存在して、ここは寺山修司のお気に入り、そして麻雀に狂っている人の溜まる店には色川武大が通ったと聞いている。であるので、学生の興味本位や観光でこの街を訪れるのなら、老舗は避けたほうがよいかもしれない。

我々がよく通っていたのは、とある建物の二階にある店で、入り口の階段の下に「あしたのジョー」のポスターが貼ってあって、矢吹ジョーが「ようこそゴールデン街へ」と出迎えてくれる店であった。恐らくこの店はもうないと思うのだが、何故ここだったかと言うと、店内のBGMはブルースとフォークソングしか流れないのである。ロバート・ジョンソンやウディ・ガスリーはそこで初めて聴いた。多分この店はもう無いのだが。

新宿は文壇バーが多く存在したことでも知られている。中でも有名なのが「ナルシス」である。堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」という小説では、太平洋戦争以前の店内の様子や常連が記述されている。常連客は、井伏鱒二、開高健、井上光晴、草野新平、田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫、そして映画関係者など挙げればきりがないくらの数である。では私はというと実は店に入ったことがない。というのも、私は新宿が嫌いなのである(ゴールデン街は特殊で楽しいところではあるが)。渋谷も好きではない。街の雰囲気が好きではないというのもあるが、それよりも駅前にじっと立っている人が多すぎるのだ。待ち合わせか何かなのだろうが、よくもまあこんなにたくさんいるものだと常日頃感じていた。駅の出口に近づくと人の壁があるようで、それが私には何となく異様なものと感じられたものである。そう、あまり好きではない街のことなのでこの話はここまで。