初老の詩人がテレビ画面に映っていた。詩人は新聞の切れ端をカメラに近づけて、「あなたの書いたこの詩、いいねぇ、格好いい・・・」と話し出す。次の画面では別の詩人が、「格好いいなんていうもんじゃ・・・」とよく聞き取れないひどく癖のある口調で話している。初老の詩人は谷川俊太郎、もう一人が寺山修司。私が見たのは二人が交わしたビデオ・レターである。ここで谷川が見せたのは、「懐かしのわが家」と題された寺山修司最後の詩である。私には、谷川の感想の言葉に、寺山が悲しんでいるように思えた。このとき、谷川俊太郎は知っていたのだろうか?寺山修司が、自分の死期を悟っていたことを。
寺山修司の名を、私は幾度と無く「氷点下の思潮」で挙げてきた。夢中になって彼の書籍を読み漁ったのは学生時代。丁度その頃、河出書房新社より多くの文庫本が出されていて、寺山修司を読むことは比較的容易であった。短い間であったが、私は思潮社という出版社に勤務していたことがある。勤務中、私は寺山についてなにやら熱く語ったようである。もう社に在庫が1冊しかない(私の知る限りでは1冊しかなかった)「寺山修司全詩歌句」を、代表の小田さんが譲ってくださったくらいだから、私の熱の入れようは相当なものであったに違いない。この本は、大切な本、というどころのものではない。たとえ億単位の金が目の前にあっても、私は譲らないであろう。
寺山修司については、詩人、歌人、演劇作家、映画監督、小説家、広く才能を発揮した人、という解説がよくされている。だが私には、寺山修司は常に「詩人」である。エッセイ、戯曲、評論、寺山の書いた言葉を私は、すべて「詩」として読み続けた。文学評論的な言葉を使えば、「現実性からの脱却」が、彼の主題である。どうして?何故?という自問に、寺山は幾度も自答するのだ。その姿に自分の影を見たものは、例外なく寺山の愛読者となる。私もそうした内の一人だ。詩が所詮ことばに過ぎないのであれば、ことばはすべて詩である。彼の自答はすべて、彼の詩となる。演劇や映画は、詩を見せることに他ならない。
寺山修司が登場する夢を、私は幾度も見ている。信号待ちの交差点で並んでいたり、或いは喫茶店で向かい合って座っていたりと、場面は突然現れる。そこで私は実際には会ったことも無い寺山とことばを交わすのだ。この寺山のことばを、自分の作品としたこともある。夢の中からの盗作である。
孤独とは異質の独りを
内に体験したならば 人は瞳に
言葉を宿す
外への自己は
そこから生まれ
人は
詩となる
寺山の愛読者になっていなければ、私は詩を書いていない。かつて師に、「あなたの書くことばは、詩になりますね」と言われた。内心狂喜した。散文が詩になるのであれば、寺山と同じではないか。
最近、寺山修司と会話をした。
「君の次に書く詩ね。ありきたりかもしれないけれど、『最後の抵抗』というのはどうだろう」
「最後の詩集みたいですね」
「そうかも知れないよ、だってね、次に詩を書くとき君は、名前を変えているんだから」
それで私は「最後の抵抗」という詩を書こうとしている。
【余談】
夢に作家が登場するのはよくあることである。詩を書いているときには殊更多い。あるときなどは、どういうわけか幸田文さんに作品を見せているのである。縁側に背筋を伸ばして座った幸田さんが眼鏡の縁を押さえながら私の書いた原稿を読む。そして何故か水上勉さんがその原稿を後ろから覗き込んでいるのである。夢の中で私は、「水上さんは原稿よりも幸田さんを見ているんじゃ・・・」と失礼なことを思う。
一読した幸田さんがこちらを向いて口を開く、
「そうねぇ、あまりよろしくないようねぇ・・・」
「文さんがそう言うんだから間違いない。すぐに書き直しなさい」と強い口調の水上さん。
そうして眼が覚めるのである。これは・・・悪夢か?それとも良い夢か・・・? 詩を書くときは夢の中でも気を遣わねばならないのだ。 まことに大変な作業である。