アパルトヘイトについて語るとき、忘れてはならない人物、それがロバート・マンガリーソ・ソブクウェ(Robert Mangaliso Sobukwe)である。ノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラ、デズモンド・ツツ、映画にもなったスティーブ・ビコは良く知られているが、ソブクウェについては、ほとんど語られることがない。ことに、日本においては。だからソブクウェについて書こうと試みても、資料が乏しい。それでも、略歴だけであろうと、ここに可能な限り、記しておこうと思う。
ロバート・ソブクウェは、1924年12月5日、ケープ州南東部のフラーフ・レイニェトに生まれた。ロバートの祖父は、ボーア戦争の前に、現在のレソトを離れ、フラーフ・レイニェトに移り住み、そこでロバートは誕生した。多くの黒人同様、出生届はない。であるので、彼の誕生年月日は正確ではないかも知れない。彼の家は貧しかった。当時貧しくない黒人は殆どいないので、当然と言えば当然ではあるが。しかし、ロバートはヒルドタウンにある高校へ進学する機会に恵まれる。当時、黒人が高校に行くことは極めて稀だ。全体の2%にも満たないであろう。教育を受けることが出来たことは、ロバートが選ばれた人物であり、学業に優れていた、とみて間違いない。さらに言えば、当時の南アフリカでは、黒人には義務教育すらない。
ロバートの学業成績は余程際立っていたのだろう。彼は白人の教師の推薦を受け、高校の校長夫妻の援助を得て、フォート・ヘア大学に進学することになる。フォート・ヘア大学は、いわゆる黒人のための大学であるが、ここで学んだ、「原住民行政学」が彼の思想に大きく影響したと考えられる。同時に学内で彼は、海外の新聞、とりわけ英国紙を読む機会が多かったようだ。入学時、ロバートは23歳。1947年頃のアフリカ諸国は、「独立」への歩みを確実に進めていた。間違いなく「アフリカ」を意識したはずである。ロバートは卒業後、スタンダートンのジャンドレル高校に赴任する。この頃のロバートについては、デズモンド・ツツの言葉をお借りしたい。
私が初めてロバート・ソブクウェに出会ったのは、彼がまだ高校教師をしていたころである。私自身は教師になる勉強をしていて、彼の実直さに心を打たれた。というのも、彼はできる限り、生徒たちの勉強の手助けをしてあげようとしていたし、授業が終わっても、かなり遅くならないと家に帰らないのだ。ツツはまた、現実的には黒人のほとんどが貧しい労働者として生涯を終えるのだから、教師はそのようなことをする必要はなかったが、ロバートはそうしなかった、と続ける。「ロバートにとって、彼らはまさしく人間」であるからだと。
ツツの著書にもあるが、高校教師の頃より、ロバートは政治的活動を行っている。1952年にはANC(アフリカ民族会議:マンデラなどが所属した)が展開した不服従闘争の集会をスタンダートンで行った責任を問われ、職を失ないかけている。この時、学校が彼を擁護し、政治を学校に持ち込まないという誓約書を書かされるだけで済んでいる。この頃のロバートをツツは、「奴隷根性に浸かった黒人の精神を鍛えなおそうともしていた、黒人意識運動の信条を実践していた」と書いている。黒人意識運動は後にスティーブ・ビコが提唱するのであるが、思えばビコが、ANCに所属することなく黒人意識運動を創設したのは、ロバートの影響が大きかったのだろうと、私は考えている。
1954年6月、ロバートはウィットウォータースランド大学に教員として採用され、ヨハネスブルグのソウェトに移る。バンツー語学科の助手となったのである。この時、ロバートはツツの学士論文を手伝い、ツツは見事に卒業。当初ANCの活動を行っていたロバートだが、ツツとの交流が多かったようである。しかし大学の講師となっているとはいえ、当時南アフリカの黒人には、家を買う権利、がない。ロバートも市営住宅に暮らしていた。市営住宅と聞けば、なかなか立派なものを想像してしまうが、ロバートは入居の際、内装工事すらされていない住宅の工事費用に200ポンド使ったそうである。200ポンドは、彼の年収の半分近かったともあり、さらに当然のように電気はなく、ランプでの生活が続く。その環境にあっても、ロバートは自身の語学力を高めていく。
ロバートはウィットウォータースランド大学で名誉学士課程に登録し、1958年、名誉学士号を得る。その翌年、南アフリカ政府は白人大学への黒人の入学を禁止したので、ロバートはバンツー語学科の名誉学士課程への登録を許可された最後の「黒人学生」となった。相当語学に優れていたのだろう。その後、オックスフォード大学出版局のアフリカ言語に関する出版の顧問を務め、アフリカ人作家の作品に対する検閲に意見も述べている。このままであれば、ロバートは間違いなく「語学」での地位を確立させられたに違いない。
しかしロバートは大学での教職の地位を捨てる。周囲の状況がそうさせたのである。黒人に対する政府の抑圧は日毎ひどくなっているし、そうした状況の中、ANCでも従来の闘争のあり方への不満などから、内部での抗争にまで発展する事態となっている。因みにロバートは、大学講師を続けている間も、ANCに所属し、度々活動を行っている。ウィットウォータースランドは白人の大学であり、そこに所属するロバート自身の立場も危ういものであったのだろう。年月日が正確には分からないのだが、ロバートは大学講師の職を捨て、ANCと決別。新たな組織、パン・アフリカニスト会議(PAC)を1958年に立ち上げる。翌年の59年結成式を行い、ロバートが初代議長に選出された。スローガンは、「アフリカ人による、アフリカ人のための、アフリカ人の政府」であった。
その翌年、事件は起きる。「シャープビルの虐殺」である。黒人はパスと呼ばれる身分証の携帯が義務付けられている。このパス法に反抗する抗議集会が、PACの呼びかけで南アフリカ各地で行われていた。パスを持たずに警察署までデモ行進をし、「逮捕せよ!」と迫るのである。実に効果的だと思うが、シャープビルでは思いもよらぬ事態が起きる。警察が一斉射撃を行い、69人が死亡したのである。この事件、講談社現代新書の「新書アフリカ史」には「世界中が戦慄した」とあるが、日本でどれだけ報じられたか私は知らないし、何より、世界史の授業で出てきた記憶もない。日本からすれば、南アフリカは「金」の仕入れ先であるし、事実、高度成長からアパルトヘイト撤廃まで、経済制裁を行うことはおろか、その後のビコやツツを支持することもなく、輸入し続けた。南アフリカからすれば、上得意さんである。少々それたが、この事件が元で、白人はANCとPACの活動一切を非合法とする法を制定し、ANCのルツーリは辺境に追放、ロバートはロベン島へ監禁された。
その後マンデラもロベン島へ監禁されるのだが、ソブクウェもマンデラも監禁された空白期、黒人意識運動を提唱したのがスティーブ・ビコであった。ビコの運動が広まる頃の1969年、ロバートは釈放される。しかし、キンバリーへ追放させられ、家族とともに暮らせるものの、いわゆる自宅監禁であり、外部との接触は出来ない状態にあった。その後、彼の思想が広まることはなかった。その監視下にありながら、彼は地方弁護士として働くこととなる。どんな形にせよ、黒人の生活のために、という思いだったのだろう。その後1977年、肺がんにより入院。医者は設備のある病院での治療が必要だと、南アフリカ政府にロバートが移動することの許可を求めるが政府はこれを拒絶。翌年の78年、彼は死亡する。ロバートが入院した77年の9月には、ビコが政府により殺され、マンデラは監禁されたままである。南アフリカは、84年にツツがノーベル平和賞を受賞するまで、注目されないまま、人種隔離政策を続けるのである。
以上ざっと、知りえた情報を元にロバート・ソブクウェについて書いてみた。冒頭でも述べたように、「略歴」が大半であることをお詫びしたい。何しろ、ロバート自身の言葉が極端に少ない。彼の言葉を海外の書籍などからもっと知り得たならば、また再び書くことをお約束し、今回は終いとする。