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ヴァレリーの水

「上善如水 水善利万物而不争」 老子

地球が水惑星であることは、太陽系における奇跡と言えよう。この「水」から生命が誕生したのであるから、地球上の事物に関するあらゆる「科学(人文・社会・自然)」は、「水」に帰着すると私は考える。

事実、我々人間は古くから、冒頭に挙げた老子の「上善如水」のように、生物の発生母体である「水」を喩え、讃え、あらゆる科学の場で用いてきた。

以前「老子」について書いたときにも述べたが、老子を読むと私は、多くの哲学者、芸術家との関連性を想像してしまう。イギリスの大詩人ポール・ヴァレリーもまた、その一人である。特にヴァレリーの「水を讃う」と題された一文に老子の思想を垣間見てしまう。勿論、ヴァレリーが老子を意識していた可能性は極めて低いのだが、彼もまた「水に帰着」した芸術家の一人である。

「水を讃う」でヴァレリーは、水を冒涜した者の心得違いを先ず説く。

「酒を謳ったものは一人にとどまらぬ。(中略)酒はきわめて貴く、これらの賛辞に値する。しかし水を冒涜した人々は、何という忘恩と何というはなはなだしい心得ちがいであろう」

この後ヴァレリーは、「神々しい明徹、透明な巌、霊妙な性の作因、万能の水よ、私は進んでつきざる連祷の礼讃を御身に捧げよう」と語り、「静の水」、「動の水」、「多様の水」を讃える。そして「(生)はほとんど有機化された水にほかならぬことを、解する者」が少ないことを嘆き、以下のように続ける。

「一本の草を熟視し、一本の大樹に見入り給え。そして、それは虚空の空中に注ぐ屹立する一条の河にほかならぬことを、心に思い見よ」

「虚空の空中に注ぐ屹立する一条の河」という表現に対しては、作者ヴァレリーと訳者の才に感嘆するばかりだが、この後に続くヴァレリーの言葉を、老子の「最上の善とは水である」に続けると全く違和感がなく興味深い。

「水は木によって光を迎えに進み出る。水はいくつかの地の塩をもって、陽光を慕う形を作る。軽やかな手のついた流動的なたくましい何本もの腕を、天地に向けて、差し延べ、拡げる」

水がなくては人は生きていけないことは、周知の事実である。だが先進国の住環境にあって我々は、生命の存在、現存することにとって水が特別な存在であることを忘却しがちである。自然環境について語るときも同様である。我々は先ず、「水に帰着」しなければならないのだ。波のように、我々は定められた場所へと還るしかないのだから。